大谷八朔は独り言が大きい

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TUGUMI(作:吉本ばなな)人の中心にある優しさは見えないもの

病弱で村一番の美少女で、とびっきり意地悪なつぐみに振り回されるまりあの視点からつぐみを描いた小説。

つぐみの根源を上手に描いた作品。

それは2つの理由による。

①つぐみの行動と性格は全て1つの背景に集約される。

②「きちんとした大きさで物事を計れる」まりあの視点で進行すること。

以下ネタバレを含む続きとなる。

  

まずは①つぐみの行動と性格は全て1つの背景に集約される。から述べる。

 

色々なエピソードが描かれてるが、全て1つの背景に集約されていくのわかる。

例えば小説後半に「権五郎(つぐみの彼氏の犬)が殺され、つぐみは犯人を殺そうとする。」というエピソードがある

このエピソードの表層からはまず、つぐみにとって人の命より自分の好きな対象(今回は犬)の命の方が大事、すなわち自分の正義の優先順位が高いことが読み取れる。

ではつぐみの正義とは?

つぐみは言う、

「食うものがなくなった時、あたしは平気でポチ(飼い犬)を殺して食えるようなやつになりたい、良心の呵責もなくうまかったって言いたい」

と。

このセリフはつぐみの願望だ。悪いやつになりたいという願望だ。

ではなぜ悪を望むのだろうか。そして何がつぐみの正義に繋がるのか。

 

 

つぐみがまりあに手紙を出したシーンがある、その手紙にはこう書かれている

「秋の葬式は寂しくていやですね。」

これはむしろ秋だからではなく、意地悪の限りを尽くしたつぐみの死を悲しむ人の少なさを予感している。

それを招いたのもつぐみであり、望んだのもつぐみだ。

ではなぜ望んだか。

それは死による周りへの影響を減らすため、悲しませる人を増やしたくないため、つぐみは悪になること、意地悪をし、人に嫌われることを望んだ。

そしてそれこそがつぐみの正義だ。

もう一度あのセリフに戻ろう。

「食うものがなくなった時、あたしは平気でポチ(飼い犬)を殺して食えるようなやつになりたい、良心の呵責もなくうまかったって言いたい」

この言葉の前後には、ポチを好きにならないようにしてたのに好きになってしまった、とつぐみはいう。

その裏にある気持ち=集約される背景は「自分の死を悲しんで欲しくない」という優しさではないだろうか。

つぐみの優しさである意地悪が時には無邪気な形で、時には優しさを持って、そして哀愁を持って繰り返される。

 

次に②「きちんとした大きさで物事を計れる」まりあの視点で進行すること。を述べる。

つぐみは家族である陽子を除けばまりあだけに心を許し、いづれ訪れる(かもしれない)死を悲しむことを許した。

なぜか、それはまりあがありのままにつぐみを見れる人物だったから。

つぐみは手紙の中でまりあのことを「おまえは本当に間抜けなのに、きちんとした大きさで物事を計れるのでしょう、不思議でなりません」と評価していた。

つぐみは他人から過大な、あるいは過小に認識されることを極度に嫌う人間だ。

小さい頃から病弱であることから同情され続けてきたからか。

まりあは病気で床に伏せているつぐみにも普段と変わらず接する、決して甘やかさない。

つぐみにはそれが嬉しかったのだろう。だからまりあに心を許した。

 

まりあの過不足ない視点からつぐみという人間の生き方を描くことで、読者である我々も病弱であり意地悪でもあるつぐみに対してとてもニュートラルな見方をすることが出来る。

そしてその視点がつぐみの行動、性格を決定する背景を浮き彫りにし、つぐみの根元たる人間性を輝かせている。

良い小説だった。