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妄想民族である日本が再生するための本 「シン・ニホン」著 安宅和人

イシューから初めよの著者である安宅和人氏(Yahoo Japan CSO)の新書「シン・ニホン」。

なんでもシン・ゴジラの名台詞「この国はスクラップ&ビルドからのし上がってきた」からインスパイアされたタイトルとのこと。中身はそのまま日本のスクラップ&ビルドするために提言、だ。

また新書と言っても著者的にはこれまで講演やいたるところで主張してきた内容に数字や背景の裏付けを加えてまとめただけであり、新しいことを言っているわけではないとのことだが、、すごく新しい。

いや、新しいだけでなく正しい。

日本の課題(生産性・国としての在り方など)から始まり、再生の仕方(注力すべき、配分すべきポイントなど)を数字と安宅氏の幅広な経験を元に解説している。

 

以下個人的に良いなと思い青い線を引いた箇所と自分のコメント。

・日本と世界の生産性の全体観(p.72)

事実1:機械・電気・金属関係・化学産業はかなり健闘している。

⇨これは化学産業で働いていると、やはりコアな部分を日本に残す判断をした企業が多くが付加価値ある仕事をしていることが普段からわかる。

中国・インドで作る化学産業の多くは比較検討可能で、不可能なものも詳細な製法は日本にあるため、中国・インドはキャパの切り売りしか出来ない。

付加価値として得られた利益はさらなる付加価値を生み出すためにR&Dに回す。

こうした良い循環が出来ている企業が化学産業や川上企業には多い。

 

事実2:農業・石油石炭・情報・卸売などはボロ負け

⇨農業に関していえばG7の13〜41分の1の生産性しかないという事実にショック・・・。

これは日本の平野が少ない土地も理由の1つだが、もっとも大きいのは小作を守るようなクソ制度が完全に邪魔している。

おそらく緩和により生産性はかなり改善されるけど、流通や登録制度も複雑だから世界に戦えるレベルになるには厳しいだろうな・・・。

一番は流通ノウハウがある商社が卸と農家を買って一気通貫体制を敷くことで、現に三菱商事とかはすでに仕掛けている。食のマーケットは巨大だから、一気通貫で考えないとスケールしない。

 

・日本は歴史的にフェーズ1(新技術の発明)をやったことがない、フェーズ2(新技術の応用)、フェーズ3(応用の組み合わせ)の商社なのだ。(p.115)

⇨非常に面白い著者の考察。日本はこれからの新技術(AIなど)では全く世界と戦えていない事実を説明してからのフェーズ2と3で戦えという提案、これはしびれる。

さすがストラテジスト、長期的な視野がある。

安宅氏曰く、妄想が金になる時代。確かに。これからのフェーズ2・3となるロボットや人工知能についての妄想は日本の得意とするところだ。

⇨フェーズ1で圧倒的に負けている理由の1つに日本には計算機科学やデータサイエンスを学んでいる層が圧倒的に足りてないことが挙げられていた。

よく言われることだが、100万人に1人の逸材になるのは難しくても3分野で100人に1人の人材になることで100万人に1人の逸材(=1/100 x 1/100 x 1/100)になることは容易という。

僕は化学 x ビジネス(商社) x データサイエンスで逸材を目指すべきか・・・。

日本はオールドエコノミーすべての分野が強い稀有な国であるが、ニューエコノミーが脆弱であることから考えても、オールドエコノミーに属している僕はニューエコノミーの何かを学んでいないとハイリスクだろう・・。

 

また学ぶ上で認識しなければいけないのはAIには「何が出来て何が出来ないか」であり、僕ら人間は「何が出来ないか」に注力する必要がある。

そして端的にいうとAIに出来ないことは「知覚」である。

言語化や数値化できない感覚の方が、世の中の大半であると著書には書かれている(p.196)。

 

この感覚を養う力は結構最近色々なとこで言われているけど、おすすめは山口周氏の「なぜ、世界のエリートはどんなに忙しくても美術館にいくのか?」 

 

 

そして「シン・ニホン」では3つのスキルセット、ビジネス力(課題設定)・データサイエンス力(情報処理)・データエンジニア力(実装)の重要性を説くとともに下記のようにも述べている。

「まず身につけるべきは、虚子坦懐に現象を見る力、その上で分析的、論理的に物事を考え整理する力だ。また本物のデータxAI使い(データプロフェッショナル)、データサイエンティストになりたいのであれば統計数理、数学的な素養こそまず身につけるべきた。これらの素養や、手を動かして何かを作る場を犠牲にしてまで、プログラミングスキルを先に学ぶ意味はないと言える。(p.167)」

 

シン・ニホン人(著書にはない僕が作った造語)になるためには、プログラミングを闇雲にやるのではなく、基礎を学ぼう、素養を身につけようということだ。

そこで僕はまず統計とはなんぞや?ということを理解するために、人がなぜ様々な統計を作るに至ったかを学習することにした。

 

 

次回は「統計の歴史」を忘備録的にブログしたいと思う。

 

 

 

 

天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ(著:北野 唯我)

 

天才を殺す凡人には3つのタイプが登場する。

天才:独創的、創造的。アート、企業、エンジニアリング、芸術関係を得意あるいは武器にする。

秀才:再現性、説明能力。サイエンス、組織、ルール、数学、編集、書面、法律を得意あるいは武器にする。

凡人:共感性。言葉、マーケティングSNS、写真、文学、地域得意あるいは武器にする。

 

この本のストーリは凡人が天才を生かすために最強の実行者を味方につけ、天才を殺そうとする社内の秀才に立ち向かい、その過程で共感の神になる、といった感じだが、そのストーリーは1つ具体例であり、面白いがある種の贅肉である。

食べると美味しいけど骨はそこではない。

ストーリーだけを読むと、この本のメッセージが「凡人の勝ち筋は天才を見つけ、活かすことだけ。」ということに変容してしまう。

しかしこの本は凡人の勝ち方を教える指南本ではなく、ましてや人間には3タイプあるという説明する本でもない(そもそも天才・秀才・凡人は一人一役ではなく、一人の中に必ず全員存在し割合が違うだけ)。

伝えやすく、話題になりやすいようにストーリメイキングしただけだ。

 

ではこの本の本質はどこにあるだろうか?

そもそも本のタイトル「天才を殺す凡人」の意味はなんだろうか。殺すとはなんぞや。

簡単にいえば天才は無数にいる凡人に多数決により殺されてしまう可能性について言及しているが、その多数決の正体とは、 

「天才⇄凡人の間にある、コミュニケーションの断絶こそが天才を殺す要因」

である。

ではなぜコミュニケーションが断絶されてしまうのか。

本はこう続く。

「コミュニケーションの断絶は「軸(その人の持つ価値観)と評価(軸に基づいて良いか悪いか)」の2つで起こりうる。天才は「創造性」という軸で物事を評価する。対して秀才は「再現性」で、凡人は「共感性」で評価する」つまり、階層が断絶の理由は評価軸の違いであるためだという。

ではなぜ評価軸が違うのか。

その答えまでは本書に乗っていない。

しかし僕が思うに、それはその人個人の価値観=重要だと信じるもの、つまり自分たちの得意分野を土俵にして喋ろうとしているからだ。

なんということだ、それぞれが得意分野で相手にマウントを取ろうとする。

それが人間なのだ。

そしてそのズレが僕たちを断絶させる。

 

ゆえに僕たちが必要なのは「理解させたい相手の言葉で喋る」ことが重要になってくる。

それが本書でいる最強の実行者でありスーパーエリートであり共感の神なのだ。

相手の言葉を自分の言葉に翻訳するのは確かに言葉を武器とする凡人の得意とすることだろう。

しかし秀才にはそれを分析し再現することが出来る。

自分の価値観からは相手の言葉を翻訳する価値が見出せないかもしれない。アホかと思うかもしれない。

しかし相手を理解することのメリットは時に測れない。

 

そこで次に自分のことを鑑みながら本書を頼りに、抽象化し、分解し、再構築してみたいと思う。

 

僕の上司は間違いなく凡人である。

天才や秀才たる片鱗は持ち合わせてない。

どう相手と折衝するかに長けている割にはモチベーションが下がることを平気で言ってくる、ある意味上司としてそれで良いの?という能力ない系の昭和サラリーマンだ。

そんな上司を本書を切り口に翻訳したいと思う。

まず、人を理解するために重要なのは評価軸だ。

上司の人事考課における評価軸をイメージすると「自分が理解できることは+評価、理解出来ない子は−評価」だろうと推察出来る。

なぜそのような評価軸を持つのか。

おそらく上司を評価する上司からの評価を恐れているのではないだろうか。

自身が足りていないことには気付いており、上からダメな評価をされるのを恐れている。

だから仮に僕が結果を残す仕事をしたとして、僕がいなくなった後に継続出来ない仕事があった時、それは上司としての評価を下げる結果となる。

それゆえ、そういう仕事を最初から評価しない。評価しないことで目立たないようにする。囲い込む。そういう心理が働いているのだろうか。

それでは僕はどうハックすべきか。

正攻法でいえば理解してもらうように共感に訴えるべきなのだろう。

それこそ現場に上司を連れて行き、実際の交渉の現場を見てもらい、苦労もともにすることが一番である。

しかしこの方法は時間がかかる。

まずやるべきことは上司の本質に切り込むことだ。

本質が「上司を評価する上司からの評価を恐れ」であることを考えれば、僕がハックするのは上司の上司である。

つまり上司の上司に説明し、評価すべき仕事であると認めてもらうのが重要になる。

ではどのようにして認めてもらうのか。

これは簡単だ、なぜなら上司の上司は秀才であるため数字で説明すれば済むからだ。

凡人が凡人たる所以、数字評価せず「なんとなく」で済ませてしまうがゆえに、翻訳する言葉を「何をいうか」ではなく「誰が言うか」に依存している。

だから共感の神に意味はない、影響力を行使できるのは翻訳する人間であり、凡人や秀才、天才といった属性的なものではなく、むしろ階級的なものだ。

そう思うと職場関係の人間関係に悩む全ての人へ、と言うサブタイトルは必要だっただろうか。

 

いろいろと書いてしまったけど、とてもためになる良い本。

 

 

 

TUGUMI(作:吉本ばなな)人の中心にある優しさは見えないもの

病弱で村一番の美少女で、とびっきり意地悪なつぐみに振り回されるまりあの視点からつぐみを描いた小説。

つぐみの根源を上手に描いた作品。

それは2つの理由による。

①つぐみの行動と性格は全て1つの背景に集約される。

②「きちんとした大きさで物事を計れる」まりあの視点で進行すること。

以下ネタバレを含む続きとなる。

  

まずは①つぐみの行動と性格は全て1つの背景に集約される。から述べる。

 

色々なエピソードが描かれてるが、全て1つの背景に集約されていくのわかる。

例えば小説後半に「権五郎(つぐみの彼氏の犬)が殺され、つぐみは犯人を殺そうとする。」というエピソードがある

このエピソードの表層からはまず、つぐみにとって人の命より自分の好きな対象(今回は犬)の命の方が大事、すなわち自分の正義の優先順位が高いことが読み取れる。

ではつぐみの正義とは?

つぐみは言う、

「食うものがなくなった時、あたしは平気でポチ(飼い犬)を殺して食えるようなやつになりたい、良心の呵責もなくうまかったって言いたい」

と。

このセリフはつぐみの願望だ。悪いやつになりたいという願望だ。

ではなぜ悪を望むのだろうか。そして何がつぐみの正義に繋がるのか。

 

 

つぐみがまりあに手紙を出したシーンがある、その手紙にはこう書かれている

「秋の葬式は寂しくていやですね。」

これはむしろ秋だからではなく、意地悪の限りを尽くしたつぐみの死を悲しむ人の少なさを予感している。

それを招いたのもつぐみであり、望んだのもつぐみだ。

ではなぜ望んだか。

それは死による周りへの影響を減らすため、悲しませる人を増やしたくないため、つぐみは悪になること、意地悪をし、人に嫌われることを望んだ。

そしてそれこそがつぐみの正義だ。

もう一度あのセリフに戻ろう。

「食うものがなくなった時、あたしは平気でポチ(飼い犬)を殺して食えるようなやつになりたい、良心の呵責もなくうまかったって言いたい」

この言葉の前後には、ポチを好きにならないようにしてたのに好きになってしまった、とつぐみはいう。

その裏にある気持ち=集約される背景は「自分の死を悲しんで欲しくない」という優しさではないだろうか。

つぐみの優しさである意地悪が時には無邪気な形で、時には優しさを持って、そして哀愁を持って繰り返される。

 

次に②「きちんとした大きさで物事を計れる」まりあの視点で進行すること。を述べる。

つぐみは家族である陽子を除けばまりあだけに心を許し、いづれ訪れる(かもしれない)死を悲しむことを許した。

なぜか、それはまりあがありのままにつぐみを見れる人物だったから。

つぐみは手紙の中でまりあのことを「おまえは本当に間抜けなのに、きちんとした大きさで物事を計れるのでしょう、不思議でなりません」と評価していた。

つぐみは他人から過大な、あるいは過小に認識されることを極度に嫌う人間だ。

小さい頃から病弱であることから同情され続けてきたからか。

まりあは病気で床に伏せているつぐみにも普段と変わらず接する、決して甘やかさない。

つぐみにはそれが嬉しかったのだろう。だからまりあに心を許した。

 

まりあの過不足ない視点からつぐみという人間の生き方を描くことで、読者である我々も病弱であり意地悪でもあるつぐみに対してとてもニュートラルな見方をすることが出来る。

そしてその視点がつぐみの行動、性格を決定する背景を浮き彫りにし、つぐみの根元たる人間性を輝かせている。

良い小説だった。

 

3部作 悪童日記、ふたりの証拠、第三の嘘 作:アゴタ・クリストフ

心が震える作品。

ハンガリーから亡命した女性作者が己の過去の傷をえぐり、魂を絞って書き上げた、そんな作品。

舞台は占領されるハンガリーの片田舎。

親に残された二人の子供が意地悪ばあさんと生活をしている。

その文章の端的さ、描かれる主人公は自分の正義を明確に持ち、情よりも正義を自身の信じることを尊ぶその合理性。

そこには村上春樹の主人公のような姿を感じさせる。

愛に生き、ただ愛の定義が人と違うために人に理解されない、そんなことは構いもしない、そんな主人公に凡人たる僕らは憧れ惹きつけられる。

1部目である悪童日記はそれでよかった。

でも2部目、3部目のふたりの証拠、第三の嘘。

これらはなかなか曲者だ。

そこにあるのは矛盾、あるいは付け足しの刃のようんちぐはぐさ。

決してパーフェクトな小説ではない、むしろ続編としてはお粗末さが目立ち、1部目のインパクトだけの作品のように感じるかもしれない。

それでも僕はこの作品群が好きだ。

そこには作者であるクリストフの生き様が見える。

自身のコンプレックスを作品に昇華する姿勢が見える。

それが金のためでも、苦しみながら書いていても構わない。

いや、だからこそ、より愛を持って作品を読むことが出来る。

 

シンパサイザー/The Stmpathizer(著:ヴィエト・タン・ウェン)

シンパサイザー/The Stmpathizer(著:ヴィエト・タン・ウェン)

 

シンパサイザー、同調者。

 

北ヴェトナムのスパイとして南ヴェトナム政権に仕えるスパイが男を軸に物語は進む。

フランス宣教師とヴェトナム人のハーフとして生まれ、北ヴェトナムのスパイとして南に従事し、哀愁と悲哀が漂う後期ヴェトナム戦争からサイゴンが陥落し、スパイとして引き続き将軍と共に行動するよう指示され、難民キャンプに逃れ、アメリカにわたり、ハリウッド政策に関わりながら南ヴェトナムの将軍の反乱を北ヴェトナムの同士であり義兄弟の契りを交わしたマンに伝え、同じく義兄弟の契りをかわし、死に場所を探すボンを助けるために、ヴェトナムに侵入する作戦に参加し、捉えられ、人民員会として現れたマンにより再教育(と呼ばれる苦痛を与えない拷問)を受け、精神が乖離する中で真実を見つける。

 

彼が見つけた真実は本書を読み通さないと字面だけではその心に触れることが全く叶わないので省略。

 

ストーリーは人民員会に告白する手紙を書く独房と、過去の告白の手紙を行き来する形で進行される。

手紙を書いているシチュエーションが分からず、その過程を手紙を通して向かっていくスリル、そしてそこに告白の手紙が現代に追いつき、そこから再教育を受ける描写のリアルさ。

再教育の描写をここまで細かく、迫真に満ちたものに出来る、ここに著者であるヴィエト・タン・ウェンの本質を見ることが出来る。

筆者はヴェトナムのボートピープルではあるが脱出時は幼かったので再教育を受ける機会もなかっただろう。

それを想像で補ったとするのであれば非常に卓越した想像力と、綿密な調査能力が必要だ。

ときに最近共産主義から崩壊する時代をテーマにした本ばかり読んでいて気付いたことがある。

彼らの大事にする「自己批判の精神」、これは生半可のものではなく、訓練と呼んでもよいレベルで全人民に繰り返し行われ刷り込まれる考え方だが、これが自己の内面を掘り下げる「再教育」の描写でも効いているのだ、おそらく。

 

ドストエフスキーが文豪と呼ばれるのはあそこまで濃密で精神を深く掘り起こした文章を書くことが出来たためであるが、それはやはり共産主義時代特有の「自己批判」による訓練の賜物であったにちがいない。

仮定し論証し、批判をし、時には引用し、自己批判を繰りかえす。

僕らからしてみたら不毛とも思える時間であるが、内面を見つめ続けて得られるものを余すことなく伝えようとする文面には文字に飢えた心が躍る。

そして僕がそれらの作家と親和性が高いのは、内面に深くおりていく、それが直接的であろうと間接的であろうと、比喩であろうと暗喩であろうと、メタファーであろうとなんだろうと、文字という球を僕の心の壁にぶつけ、跳ね返ってくる音を聞きたいからだ。

次に読む 悪童日記、ふたりの証拠、第三の嘘、そして シンパサイザー

最近共産主義時代の退廃的な雰囲気と、それが崩壊していく・崩壊した時代の比較を描く小説にはまってます。

悪童日記、ふたりの証拠、第三の嘘、はハンガリーからフランスに亡命した小説家アゴタ・クリストフの作品。独特の文体。

 

 

 

 シンパサイザー

共産主義であるきたベトナムに敗北した南ベトナム政権の青年は実は共産主義者だった。

共産主義的思想よりアメリカ思想が強く出ている彼がなぜ共産主義に心惹かれるのか。

貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える / Poor Economics a Radical Rethinking of the Way to Fight Global Proverty (著:A・Vバナジー&デュフロ)

貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える / Poor Economics a Radical Rethinking of the Way to Fight Global Proverty (著:A・Vバナジー&デュフロ)

 

この本はMITのバナジーとデュフロが経済開発と貧困問題に長年取り組み、医農薬の世界では当然のように使用されてきた「ランダム化対象試行」を用いて、様々な角度から貧困の問題を分析し、一般向けに著している。

 

貧困になぜなるのか、貧困からなぜ抜け出せないのか。

ある人は貧困を打ち破る土台がないためだと言い、ある人は援助に甘えてしまい能力開発を怠るせいだと言う。

どちらの主張も人々の経験してきたストーリーによって信憑性を持つようにも感じられる。

こういったことは主観で考察される学問にはよくある。

 

実際のところ、どちらが正しく、あるいはどちらも正しくないのか。

 

ランダム化対象試行とは、条件の近い村々、あるいは1つの村の中で対象を2分することによって、属性差をなるべく揃え、実験をし、その有意差を見ることだ。

 

そういった試行を健康・補助金・家族計画・保険・金融・貯蓄・企業・政治(選挙)の切り口で繰り返し、得られた知見がこの本には詰まっている。

 

それらの結果は非常に面白く、人間味があり、貧乏人とは貧乏人の合理性にしたがって生きている結果であることが浮かび上がってくる。

その合理性を読み解くとき、心理学的分析結果を読んでいる気分になる。

かれらの行動を通してその心理と行動を的確に説明するためには、ダニエル・カーニマンの「ファスト&スロー」などを事前に読んでおくととなお良いかもしれない。

 

 

 

貧困の人は愚かで怠惰なのだろうか、そのためいくら援助しても貧困はなくならないのだろうか?

その答えは難しく、一概に言えることではない。

ただ人は「希望」をどの程度持てるかをベースに行動することを本書は明らかにする。

例えば、牛3頭を育てて売る貧民に安くお金を貸して、牛6頭を育てさせ、上回ったお金をさらに投資して貧困を脱することが出来るだろうか?

答えはYesでありNoだ。

牛3頭なら一人でも面倒をみられる、でも6頭なら人を雇わないといけない、そういう状況であった場合、固定費をあげて失敗すれば貧乏人には後がなくなる。

そういったリスクを投資してまで背負う必要があるのか。

また6頭を育てられるようになったとしても、貧困のレベルが少しましになった程度で貧困のままであり何も変わらない、ならば現状維持でも良いのではないか。

人はそう考える、実に合理的に。

 

人々がリスクを取るとき、それは「安定」が身近にある時だ。

例えば農村の若者は都市に出稼ぎにいくが2~3か月働いたら地元に戻り、また都市に働きにいくことを繰り返す。

若者が都市で働き続けるためには安定した職が必要だ。

それがないために不安定に移動し続ける。

例えばこんなデータがある。

一族のうち誰かが都市で安定した働き口をもち暮らせる環境を持つと、こぞってその一族が都市に集まりだす。

それは拠点を持ち、安定が確保されているからだ。

そうやって助け合い、人々は貧困を抜け出していく。

この実験結果に貧困の解決策が隠れている気がする。

人が冒険をするとき、それはどこかに「安定」な拠り所があるときだ。

でも全員が冒険をできるわけじゃない、これはミクロな貧困を解決する方法論でありマクロな貧困を解決する方法論ではない。

今は答えは出ない、しかしいつかたどり着くだろう、貧困が絶滅した未来へ。