大谷八朔は独り言が大きい

読者は自分です

映画 西の魔女が死んだ (原作 梨木香歩)

「人は体と魂で構成されている。

死ぬということは、体から魂が出て自由になることだと思う。

お腹が空いて怒りっぽくなるのは魂が体の影響を受けているから。

だから死んだマイが、今のマイとは同じじゃないでしょうね」

西の魔女が言う。

 

マイは、「それなら体なんて、ないほうが良いじゃない」と呟く。

 

「美味しいものを食べた時、ラベンダーとお日様の匂いのするシーツで眠る時、とても嬉しいでしょう。

もし体が無ければそういう経験も出来ないでしょう。

そして魂はそういうことを経て成長するのよ。」

 

「なんで魂は成長したがるの?」

 

「それが魂の性質だからよ。」

 

 

物語自体はここでおばあちゃんがマイとある約束をし、最後に果たすことによって、マイが許しを得たことを直感し、言えなかった「おばあちゃん大好き」を呟くことで本編は終わる。

上記は西の魔女であるおばあちゃんとマイの会話であり、僕が一番記憶に残したいと思ったシーン、ここを深堀したい。

 

 

 

 

魂の性質、それは成長を求めることだろうか。

人の本質は動物同様、生きて子をなし繁栄することにあり、僕らはそれ故に食べて、寝て、セックスを求める。

しかし西の魔女に言わせれば、人とは「体と魂が合わさった」ものであり、上記した3大欲求は「体」が求める性質であり、魂が求めるものではない。

 

本編では、魂の性質が成長を求めることであり、成長には経験が必要だと語られていた。

僕はそれを聞いて考えてみたことがある。

経験とは体が喜怒哀楽を感じ、蓄積することと言い換えられる。

言うなれば、体は魂の成長のための舞台装置であり、喜怒哀楽をおこす人との関わりは舞台の俳優みたいなものかもしれない。

 

魂の性質が成長だとしても、そこには理想的な形があるのだろうか。

例えば哀しみのみを多く経験した人は心に変調をきたし、歪んでしまう。

楽しいことばかりでは自分を省みることが出来ず、軽薄な心になるかもしれない。

様々な経験を通してのみ心は正常に成長するとしたら、人は何を求めれば良いのだろうか。

 

西の魔女とマイは「魔女修行」を行う。

魔女には精神を鍛えることが必要であり、その初歩修行は「なんでも自分で決めること」だ。

精神とは、魂とイコールではないが、とても似ている。

精神と魂の関わり、恐らく、体が得た経験を精神がその見方を変え、魂の成長する方向を誘導するのではないだろうか。

「なんでも自分で決めること」により、得られる経験は全て自分で選んだものと精神は見なす。

それは受動的な生き方から能動的な生き方への大きな変化だ。

西の魔女は、変えられない現実(経験)ですら、精神の在り方により見え方(経験の形)を変え、そしてその形に応じて成長するマイの魂の方向を変えた。

 

まさに魔女の技だ。