大谷八朔は独り言が大きい

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冗談 ミラン・グンデラ

チェコ産まれの巨匠、ミラン・グランデが書いた共産党時代の閉塞感を描いた出世作、「冗談」。

 

 

「冗談」

それはルドヴィークがマルケータに宛てた手紙を発端にして起きた事変。

 

ルドヴィークはこう言った。

「楽観主義は人民の阿片だ!健全な精神など馬鹿臭い!トロツキー万歳!」 

マルケータに恋をする盲目的なルドヴィークは見栄から考えもせず言ってしまう。

 

この本の舞台は時代は共産主義が蔓延するチェコスロバキア

ルドヴィークの冗談はこの時代(トロツキー共産主義の敵とする時代)には致命的であり、彼が信じる全てのものから吊るし上げをくらい、これまでの人生を完全にぶち壊すには十分だった。

 

学生裁判を経て、追放されたルドヴィークは思う。

「自分が一度も党の組織と一体になったことも、一度も正真正銘のプロレタリア革命になったこともなく、単なる決意から出発して革命家に共鳴したに過ぎないのではないかということだ。つまり私たちが感じていた革命への帰属意識は選択ではなくて実体の問題だったと言えないだろうか。人は革命家である場合は、この運動と一心同体になる。革命家でない場合には、単に革命家になろうとするだけだ。だが、このような二者択一に置いて、人は絶えず自らの他者性をどこか悪いことのように見なしてしまうのではないか(本文p82)」

 

ルドヴィークは自分に内包され、時には悪癖と罵られる他者への皮肉さをこう分析する。

本質が違う人間が、別の本質に憧れ目指したところで、自己との他者性を発見するに過ぎない。

そしてそれは「皮肉」として発露し、自己を守ろうとするのだ。

 

※他者性:他者性とは、差異や異質性を指し、しばしばこれらの言葉と互換的に用いられる。17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトRené Descartesは、とりわけ自らの権利の中において「(大文字の)他者Other」の理解をすることに特に留意し焦点を絞った文化的・歴史的なアプローチに向けて、「他者」理解を基礎付け確立した。

 

この考え方は共産主義時代のチェコだけでなく、今の日本にに通じるものがある。

例えば僕たちは何かに憧れ、それに到達すべく生きている人たちがいるのを知っている。

だがその到達すべき努力している人たちは、そもそも本質的に、産まれながらにそうあるべき人たちとは違うことを知らない。

時には無自覚な意識が、枠組みの外から物事を眺める自分を作り出し、他者やあまつさえ自分すらも皮肉り、自己を防衛する挙動となる。

本物たろうとする人たち(あるいは自己催眠のごとく自分は本物だと思い込んでいる人たち)からすれば、他者性とは恥すべき行いであるのだ。

それは本物たろうとする自分を指摘されること他ならないから。

 

 

ルドヴィークは他者性を憎む世界を知り、追放され、その先で新しい経験をする。

それはさらなる本質を知るきっかけだった。

 

ルドヴィークは、武器も持てない炭鉱に従事する兵役に課され、オストラヴァの兵舎で過ごすことになる。

信じていたものから「敵」と見なされる絶望から人を避けていたルドヴィークは、ある日ルツィエと出会う。

ルツィエとの出会いをこう邂逅する

「人はよく、一目惚れなどということを口にする。愛が自らをめぐる伝説をでっち上げ、その始まりを神話化しがちだということを、私は知りすぎるほど知っている。だからそれが瞬時の愛だったなどとは言うまい。しかしあの時には、本当に一種の閃きというべきものがあったのだ。ルツィエの真髄ーあるいはもっと正確に言うならーのちにそうなった私にとってのルツィエをルツィエとして存在させている核心をたちまち一挙に理解し、感じ取り、見たのであり、誰かが掲示された真実をもたらすように、ルツィエは彼女自身を私にもたらしたのだ(本文p120)」

 

これはキリストが得た啓示のようなものであった。

ルドヴィークは自分の中にも確かに「本物」が存在することを確信したのだ。

 

 

そしてルドヴィークはルツィエとの邂逅の中、25歳の「ガキ隊長」により妨害されることにより、次なる本質を見出す。

「若者が演技をするとしても、それは彼らのせいではないのだ。彼らは未完成なのに、人生においては完成された世界に立たされ、一人前の男として行動することが求められる。そこで熱心に、流行っているとか、自分にあっているとか、自分の気にいる形式や模範に合わせようとする、そして演技することになるのだ(p155)」

 

そう、かつて共産主義に傾倒した若かりし自分もまた、世界から演技を求められていた。

 

他者性、本物たろうとする事、演技を強制されること。

これらが共産主義時代のチェコの、そして今の日本、もっと言えば現代を生きる世界中の人々、すべてに共通することなのかもしれない。

 

ルドヴィークを主軸としながら他者の視点から登場人物に肉付けされ、補完される話の展開がとてもミラン・グンデラっぽい。

「存在の耐えられない軽さ」を読んだ時からグンデラの書き方は好きだったけど、この「冗談」も、重厚で、いくつもの思想が入り混じる、ロシア文学のような文章の洪水で溢れている。

 

万人におすすめ出来ないが、ドストエフスキーフランツ・カフカ、あるいは谷崎潤一郎みたいな作風が好きな人にはおすすめ。

レビュー 熔ける: 大王製紙前会長井川意高の懴悔録 (井川意高)

 

関連会社の金、106億円を個人的にギャンブルにつぎ込んで負けた男、 大王製紙前会長の井川意高氏が書いた懺悔録。

懺悔録と書いているが、井高氏は反省はしているが後悔もしておらず刑務所も従来の適応力でなるようになってしまった感が出ているため悲壮感は漂わず、回顧録の性格が強い。

 

以下記憶に残る点。

 

本人の仕事のエピソードからも、自身の著書の言葉からも

「世の中は善か悪か、白か黒かの二元論では決まらない」

と考えを持っている人間であることからも良くわかる。

そういった人間が、あえて「あたり」と「はずれ」が明確に分けられるバカラに嵌ってしまったというのはなんという皮肉。

 

「同じ人間であっても、立場が変わればモノの見方だって変ってくる。二元論で答えを決めつけてしまえるほど、人間は単純な生き物ではない。」

この言葉からは、自分の擁護の臭いを感じるけど、真理だと思う。

僕たちは灰色のグラデーションの中で生きている。

 

井高氏の祖父、そして井高氏自身も納得した「10人の味方をつくるよりも1人の敵をつくるな」という言葉。

これは敵は四六時中邪魔をしてくるし、敵を作らないように生活していれば味方は自ずと出来るということ、含蓄ある。

 

最後に、人間の愚行権について。

人間は愚行する権利を持っている。合理性だけで言えば山登りも出来なくなってしまう。

自分にとって不利なことであっても自己決定する権利、それが愚行権だ。

 

 

愚行権という言葉は耳慣れないけど、とても良いKey wordのように思える。

僕たちは愚かである権利を持つ。

ゆえに人は合理的でない行動をし、そこにドラマが生まれる。

人が不利益を被らないうちは、この愚行権を行使しても文句を言うべきではないのかもしれない。

 

 

映画 西の魔女が死んだ (原作 梨木香歩)

「人は体と魂で構成されている。

死ぬということは、体から魂が出て自由になることだと思う。

お腹が空いて怒りっぽくなるのは魂が体の影響を受けているから。

だから死んだマイが、今のマイとは同じじゃないでしょうね」

西の魔女が言う。

 

マイは、「それなら体なんて、ないほうが良いじゃない」と呟く。

 

「美味しいものを食べた時、ラベンダーとお日様の匂いのするシーツで眠る時、とても嬉しいでしょう。

もし体が無ければそういう経験も出来ないでしょう。

そして魂はそういうことを経て成長するのよ。」

 

「なんで魂は成長したがるの?」

 

「それが魂の性質だからよ。」

 

 

物語自体はここでおばあちゃんがマイとある約束をし、最後に果たすことによって、マイが許しを得たことを直感し、言えなかった「おばあちゃん大好き」を呟くことで本編は終わる。

上記は西の魔女であるおばあちゃんとマイの会話であり、僕が一番記憶に残したいと思ったシーン、ここを深堀したい。

 

 

 

 

魂の性質、それは成長を求めることだろうか。

人の本質は動物同様、生きて子をなし繁栄することにあり、僕らはそれ故に食べて、寝て、セックスを求める。

しかし西の魔女に言わせれば、人とは「体と魂が合わさった」ものであり、上記した3大欲求は「体」が求める性質であり、魂が求めるものではない。

 

本編では、魂の性質が成長を求めることであり、成長には経験が必要だと語られていた。

僕はそれを聞いて考えてみたことがある。

経験とは体が喜怒哀楽を感じ、蓄積することと言い換えられる。

言うなれば、体は魂の成長のための舞台装置であり、喜怒哀楽をおこす人との関わりは舞台の俳優みたいなものかもしれない。

 

魂の性質が成長だとしても、そこには理想的な形があるのだろうか。

例えば哀しみのみを多く経験した人は心に変調をきたし、歪んでしまう。

楽しいことばかりでは自分を省みることが出来ず、軽薄な心になるかもしれない。

様々な経験を通してのみ心は正常に成長するとしたら、人は何を求めれば良いのだろうか。

 

西の魔女とマイは「魔女修行」を行う。

魔女には精神を鍛えることが必要であり、その初歩修行は「なんでも自分で決めること」だ。

精神とは、魂とイコールではないが、とても似ている。

精神と魂の関わり、恐らく、体が得た経験を精神がその見方を変え、魂の成長する方向を誘導するのではないだろうか。

「なんでも自分で決めること」により、得られる経験は全て自分で選んだものと精神は見なす。

それは受動的な生き方から能動的な生き方への大きな変化だ。

西の魔女は、変えられない現実(経験)ですら、精神の在り方により見え方(経験の形)を変え、そしてその形に応じて成長するマイの魂の方向を変えた。

 

まさに魔女の技だ。